株式会社イセヤス建材

外構工事・エクステリアデザイン・設計・施工

   
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創業者 安藤 茂治郎

 略 歴

明治43年 愛知県西春日井郡新川町外町出生。(11月1日)
生家は代々農具を扱う伊勢安商店で八男三女の十人目に生まれた。
 
大正13年 高等学校卒業 家事に従事。
昭和7年 22歳 次兄「国二郎」が豊橋市下地町で同様の商売を始め、その手伝いで豊橋へ。
昭和10年 次兄「国二郎」他界。商売を引き継ぐ。
昭和16年 スイノウ・マンパチを1ヶ月に1000個製作。
昭和20年 中古の金網製造の織機を購入。
昭和27年 株式会社にする。社名を株式会社伊勢安金網製作所にする。
昭和29年 新工場完成。
昭和42年 自動ダブル菱形網導入。
昭和45年 JIS取得。
昭和50年 東京営業所開設。
昭和53年 西ドイツ製クリンプ金網機械の導入。
昭和56年 工事部門を独立させる「イセヤス建材」設立。
平成9年 86歳 他界。
 
 
 
 
 
事業発展に寄与したファミリー(昭和57年)
左から鈴木伸欣(41歳)・安藤茂治郎(72歳)・安藤章了(42歳)・鈴木徳枝(40歳)

 
 

 明治の気骨

病弱だった次兄の代わりに商売を切り盛りしていた矢先、次兄が病死し、後を引き継ぐこととなった。
しかし、昭和初期の経済不況の中で「スイノウ」や「マンパチ(曲物製品)」などを昼夜問わず働いても、一ヶ月に千個作るのがやっとであった。
製品は木製のため、鉋や刃物を研ぐ苦労に泣かされ、機械化に人一倍熱心になっていた。
戦後間もなく、中古の織機を購入し、金網製造に乗り出したが、「納得のいく製品をどこよりも安く満足して買ってもらう」ということが商売の基本と考え、しゃにむに働いた。
 

 有為転変の世の習い

昭和9年、豊川市中篠町で化粧品小間物販売を商う家の長女・共枝と見合い結婚をした。
妻は、転生の商売好きで店での人気は妻に集中し、はるばる大阪から来る問屋さんも店にいないと「奥さんどないしたんや?」と必ず聞かれていたという。
商売は順調で、昭和27年株式会社へ組織変更。
昭和31年6月、思いがけず商売上手で健気だった妻が病に倒れ、他界。四年後、長男が結婚し、二児を設けるも、昭和40年、30歳の若さで長男が交通事故で死去。悲しみのどん底に沈められた。
 

 デッカイ買い物 <西ドイツ製クリンプ金網機械の導入>

昭和52年国際見本市の開催地スイスへの訪問の際に立ち寄った西ドイツで、デッカイ買い物をした。
当時、工業用建築用として幅広い用途のあるクリンプ金網は、針金も太く、横線を一本、一本織機に入れ込んで作っていた。東北地方からも20名ほど季節労働者を雇うなど人手がかかり、また製品の出来栄えにも今ひとつ物足りなさを感じていた。
そんな時、西ドイツの金網工場ですべて自動化された"コシ"の強いクリンプ金網が次々と作られているのを見学し、一目でこの機会に惚れ込んだ。
早速その場で「中古でもいいからこんな機械を売ってくれ」と申し込んだ。
その機械の値段は当時の価格で3000万。「よっしゃ、買った!」の即決注文で、相手も随行の商社マンもびっくり。社長の決断力の早さに一同舌を巻いた。
唱和53年、機械が完成し、西ドイツより技術者が組立調整と技術指導で来日した。安藤もこの機械の導入に真正面から取り組み、日本の針金で満足できる製品ができるよう、徹底的に調整試運転を行い、技術者の滞在は一ヶ月という長期に渡った。
この織機セットは幅90糎(センチメートル)長さ15米の金網を自動的に生産する。これは、一巻にして輸送でき、しかも伸ばせば板のようにしっかりしているため、店で必要なだけ切り売りできることから需要家の評判も非常に高く、次々と注文が入るようになった。
その後、機械を買い足し、4台(4台目の価格は7000万円)で稼動することとなったが、日本では伊勢安金網にしかなく、工場は縦覧お断りとなった。